ケータイに依存する少女たち
石原慎太郎都知事が、解剖学者・養老孟司氏との対談のなかで、最近の若者の携帯電話依存についてこう感想を述べていました。
「なぜ電話のほうがいいのだろうか。
普通、人間というものは、顔を見て話をするものではなかったのか。
それが今では電話のほうが、一見無心に長話をしている」(「子供は脳からおかしくなった」(『文藝春秋』 2005年8月号)
それに対して養老氏は、
「(ケータイでのコミュニケーションはいまの若者の)弱い自我を守るための貴重な方法なのではないか」
と答え、
「(ケータイのほうが)ずっと居心地がいい、というのもわかるような気がするんです」
と理解を示そうとしています。
もし、養老氏の仮説が正しいとすると、それに対する反応はふたつに分かれると考えられます。
すなわち、養老氏のように、「わかる気もする」とケータイ依存を受容する方向で考えるか、
あるいは、「そもそも自我が弱体化しているのが問題なのだ」とあくまでケータイのコミュニケーションをよしとしない方向で対策を棟るか、いずれかでしょう。
実は、社会やおとなたちは、いま、このふたつの方向性の間で揺れ動いているのではないでしょうか。
「便利だし気楽だしもはやケータイなしには暮らせない。
生活やコミュニケーションにおけるケータイの比が高くなるのも当然だ」
という前提で、「どうつき合い、どう使うか」というメディアリテラシーの啓蒙に力を入れていくべきだ、という人もいます。
しかし、そういう人でさえ、わが身のこととなると、
「子どもが家でケータイばかりやりすぎているのが気になる。
昔の子どもは原っぱや路地で元気に遊んだものなのに」
と、ケータイに対して警戒心を抱いてしまうこともあります。
生まれたばかりの新しいテクノロジーに対して、社会の態度が一定しないのは、よく考えれば当然のことです。
同時に、それが人間を幸福にしてくれるのか、それとも幸福とは逆の方向に導くものなのかは、結果論でしか語れない場合も多いといえます。
大切なのは、「ケータイはすばらしい」
あるいは、「ケータイはけしからん」
と安易に判断を下すことなく、自分のなかにある、「ケータイをめぐるク揺れる気持ち」をきちんと自覚することだと思います。
「もっと使いたい」
「でも本当に大丈夫だろうか」
という迷いや葛藤のなかからしか、答えは見えてこないのですから…。
デジタルメディアにはふさわしくない曖味な結論ですが、私は、そう思うのです。
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