十代の子供たちの凶悪事件について思うこと
昨今は毎月のように十代の子どもたちが、重大な事件を引き起こして、わたくしたちの心を痛めます。
2005年静岡県伊豆の国市で、県立高校1年の女子生徒が母親を劇物のタリウムで殺害しようとしたとされる事件が発覚して世間が騒然となりました。
その直後、今度は、東京都町田市で都立高校1年の女子生徒が同級生の少年に刺し殺されるという事件が起きました。
一方では、高校1年の女子が「加害者」に、他方では「被害者」になった形です。
また、いずれの「加害者」も16歳でした。
17歳、14歳、12歳…と同じ年齢同士の少年少女が偶然にも相次いで事件を起こす傾向がここ数年目立っています。
これからしばらくは「16歳」に注目が集まるのでしょうか。
タリウム事件の「加害者」になった静岡の女子生徒は、典型的な「理系少女」でした。
同級生が男の子やファッションの話題で盛り上がるなかで、彼女は、ひとり化学実験や動物標本づくりに熱中していたといいます。
インターネットで公開していた日記形式のブログでは、自らを「僕」と称し、地方都市で送る高校生活や日常生活への違和感を表明していました。
しかし、これだけで「この少女は異常」と決めつけることはできません。
おそらく少女はすべてが定式化、法則化された科学の世界を純粋で美しいものと感じ、異性とおしゃれのことしか頭にないような同級生たちやお金や人間関係のことで頭がいっぱいの母親世代の女性たちの「女性性」と「世俗性」に対して激しい嫌悪感を抱いていたはずです。
第二次性徴を迎える年ごろの少女は、自分もその「醜い女性」に一歩一歩近づいていることに並々ならぬ恐怖を感じていたのではないでしょうか。
そういう少女が、自分を「僕」と言ったり、女性らしい服装を拒んだりすることはめずらしくないでしょう。
「ぶよぶよした醜い身体になりたくない」
とくに身体的な女性性を拒否する拒食症の患者には、理系の課目や爬虫類や鉱物など、
なるべく非人間的な対象やかりそめの趣味を偏愛する人も少なくありません。
しかも、少女が住んでいたのは、地方のあまり大きくない都市です。
大都会なら彼女の晴好を満足させてくれる書店や美術館もあったであろうし、「理系好き」という個性を尊敬してくれる同級生もいたかもしれません。
たとえ、いずれも手に入らなかったとしても、せめて「あの子って変わり者」といった好奇の視線を逃れて、匿名のだれかとして図書館や映画館にこもることもできたかもしれません。
ところが、現実の少女はどこにも逃れることができませんでした。
体育祭の応援に行ったり、プール学習に参加しなければならなかったのです。
それは彼女にとって相当にしんどいことではなかったかと思われます。
母親に対する少女の感情を探る
少女にとって「世俗性」「女性性」の象徴が、自分の母親だったに違いありません。
少女の母親は、報道されているところによると「ごくふつうの人」でした。
近くの大型スーパーの衣料品売り場に勤め、持ち前の社交的な性格で販売員としての手腕を発揮していたといいます。
いわゆる「地に足のついた等身大の生活」を送る母親に対して、少女はどんな感情を抱いていたのでしょうか。
これは、私の想像でしかないのですが、
少女の心の中には、自分にはない社交性や現実感覚を持ち合わせ、日常生活をうまく送ることができる母親への羨望があったと考えられます。
一方で、その世俗性への軽蔑や憎悪があり、そして同時に自分もその母親の娘なのだからいつかは同様の道を歩むのではないか、という恐怖が混在していたのではないでしょうか。
もし、そうであるなら、少女にとって「母親殺し」とは、自分にも内在しているかもしれない「世俗性」「女性性」を根絶やしにするという意味をもっていたはずだ、と考えられます。
なぜこのような推測が可能なのでしょうか。
世間で話題の拒食症に代表されるように、同じような悩みや葛藤、そこから派生する症状を抱えて精神クリニックなどに訪れる若い女性が少なくないからです。
娘にとって、母親はいちばん身近な女性であるとともに、同時に「すでに結婚、出産を経験している」という決定的な事実によって、ほとんど絶対といっていいほど乗り越えられない存在です。
たとえば、思春期になって娘が「お父さんなんて汚くてきらい!」と言うようになり、母親が、「本当よね、イヤね」と友だちのように同調してくれたとしても、
その途中で娘は、「でもお母さんはそのお父さんとセックスして、私が生まれたんだ」という否定しょうもない事実に気づかされます。
従来の図式であれば、そこで娘も
「私もいつかお母さんにとってのお父さんみたいな男性と巡り合いたいな」
と自らの女性性と自立に目覚めることになるはずですが、いまは違います。
「お母さんは私を裏切ったんだ」
「私は絶対にお母さんのようにはなりたくない」
といつまでも母親をめぐる執着がつづき、なかなか「私もいつか…」と自分の将来への展望につながりにくいのです。
「母の女性性」の否定がなぜ他に向かうのか
とはいえ、静岡の少女はまだ16歳なのですから、「ふつうの女性」として現実的な生活を送る母親の存在を認め、自分のなかにもある母と同じ要素を受け入れるというのは、彼女が若すぎるために無理な話でしょう。
しかし、そこでもなお残る疑問は、「母親的な世俗性、女性性を根絶やしにしたい」という気持ちが、なぜ自分ではなくて母親という他者に向かったか、ということです。
精神科クリニックにも、同様の葛藤を抱えた患者さんが多数訪れます。
ただし、彼女たちの場合は、その葛藤は、自分への攻撃や「症状」として出現するケースが多いのです。
拒食症者にしても、「母親の作った食事なんて食べたくない」といった程度の反発を示す人はいますが、いずれにしても「健康を害するほど体重を落とすこと」の被害は、他者ではなくて自分に対して及ぼされるものです。
また、なかには、
「このまま母親のようになっていくくらいなら、ここで人生を終わりにしたはうがいい」
と自殺未遂をする人、あるいは、
「こんな自分をこのままいさせるわけにはいかない」
と自らを罰するかのように自傷行為を繰り返す人もいます。
この人たちにしても、そこに至るまでのプロセスには、静岡の少女とおそらくはあまり違いはないのではないかと思われます。
世俗や打算を軽蔑し、独特のスタイルに純粋さや美を感じ、そんな自分がまわりから浮いていることに、孤独感と劣等感、そして優越感を抱く…。
乱暴な言い方をすれば、これらは理系少女、拒食症やリストカット、さらには「ゴスロリ」などにも共通する心理なのかもしれません。
「ゴスロリ」
「ゴシック・ロリータ」の略。
12世紀半ばフランスで生まれたゴシック建築と、ロシアl第1章l事件を起こした少女の心のうちの作家「ウラジミール・ナボコフ」が書いた「ロリータ」(≦adim肯2註OkOく「LO詳a二を合成した言葉。
作者が念頭においた少女の年齢は、おおよそ10歳(最長14歳)。
この言葉は、アメリカでは、「ガール・チャイルド」と呼ばれるファッションのようだ。
彼女は「自分を消したい」と考えていたはずなのに…
彼女たちは、いずれも多かれ少なかれ、周囲との違和感に苦しみ、「どこかに行きたい」「自分を変えたい、消したい」と思っています。
それなのに、なぜ静岡の少女だけが、自分ではなく母親を消してしまおうと思ったのでしょうか。
ある段階まで、こうした少女の心は、これまでの青年期心理学や臨床での経験から解釈可能です。
その年ごろでは、それほどめずらしいケースともいえないのです。
しかし、その「落としどこる」(ゆきつくところ)がどうしても説明できないのです。
実は、こういう事件は、今回がはじめてではありません。
たとえば、2003年11月1日未明、大阪の河内長野市で18歳の大学1年生の男性が家族を次々に包丁で刺しました。
母親は、死亡、父親と弟も重症を負うという家族殺傷事件が起きました。
この事件は、その後の調べで、大学生は交際中の16歳高校1年生の少女とともにそれぞれの家族の殺害を計画したとのことです。
さらに率先して計画を練ったのは少女の側であったことが明らかになりました。
ふたりは、ふだんから「ゴスロリ」ファッションで身を固めてデートしている姿が目撃されていました。
そのためこの事件は「ゴスロリ殺人事件」などとも呼ばれました。
ふたりがなぜ家族を殺そうとしたのか、それは、それぞれの供述に微妙な違いもあるといわれていますが、
報道されているところによると、少年は
「家族を殺して少女と一緒に暮らした後、一緒に死のうと思った」
と言いました。
一方の少女は、
「ふたりきりの場がほしかった。
互いの両親を殺してそのうちふたりで死ぬつもりだった」
と述べたといいます。
妙なことに、ふたりの交際は周囲から反対されていたわけではなかったようです。
またなぜ心中しなければならないのかもさだかではありません。
ただし、この少女もまたホームページを開設しており、そこにリストカットの写真や死へのあこがれをつづった文章が掲載されていました。
ここに見えるものは、やや風変わりな趣味をもった男女が恋愛関係で、強烈な「ふたりだけの世界」ができあがっていたのです。
これは、「俗人には理解してもらえない」「まわりの人間はバカで汚い」と孤立感を強めていたのです。
その果てに、
「ふたりだけで暮らしたい」と思い、さらには、「いっそふたりだけで死の世界に旅立ちたい」と思うようになったのです。
なぜ「家族」に手をかけるようになったのか 「ふたりだけでいたい」、こういう心理に至った若い男女は、昔からいくらでもいるはずです。
しかし、やはり理解できないのは、そこから、「家族を殺す」という着地点になぜたどり着いたのかということです。
途中までは、よくある思春期の心性として理解できます。
ただし、その「殺す」という暴力的な結論だけが理解不能です。
その意味では、町田市の事件もまったく同じです。
明るく人気者の同級生にひそかに思いを寄せる男子生徒。
ところが、女子生徒のまわりに集まるのは社交的で目立つ子たちであり、やや内向的でコミュニケーションをとるのが苦手な男子生徒が近づく余地はありません。
そういう男子が教室や廊下の片すみから、じっと少女を中心としたグループを見つめる…といった構図は、これまでもマンガやドラマにいくらでもあったはずです。
あるいは、状況に絶望して落ち込んだり生きる意欲を失ったりする場合もあるかもしれないし、「死ぬくらいなら」と勇気を振りしぼって気持ちを伝える場合もあるかもしれません。
しかし、16歳の少年が選んだのは、そのいずれでもなかったのです。
少年がいつ犯行を思い立ったのか、計画的であったのか、衝動的であったのかはまだわかっていません。
ただ、少年が被害者の少女に対して気持ちを告白したり、ストーカー行為を繰り返したりしていたような形跡はありません。
おそらく「好きなのにうまく伝えられない」もどかしい気持ちで長い時間をすごし、そんなある日「なんとかしよう」と思いついたことが「好きな相手を殺すこと」であったのかもしれません。
これまで、児童精神医学では、
「親殺しのファンタジーをもつことと、実際に殺すことの間には絶対的な違いがある」とされてきました。
たとえ面接の場面で 「お母さんを殺したい」といった話が出たとしても、治療者はそれを実際の殺人予告ととらえることはなかったのです。
むしろ、そのファンタジーをきちんと膨らまさせて、ひとつの物語を完結させるところまでもっていくことが「カタルシス効果」につながる、と考えていた精神科医も少なくなかったのです。
先行きが見えず、現実に対応できない状態に陥る
ところが静岡の女子高生はブログで十分にファンタジーを語ることができていたにもかかわらず、そこで満足することはなく、母親への毒物投与が行なわれました。
また、町田の男子生徒は、そのファンタジーを語るコミュニケーション能力も乏しいまま、思いつきの「殺意」の萌芽をそのまま実行に移したのです。
ここには、「考えることと実行することとの間には大きな違いがある」という原則が、いまや通じなくなりつつあるのです。
ではなぜ、途中までは「よくある少年期の悩み」をもっていただけであったはずの彼らが、自分ではなくて他者を突然、攻撃するという予想もできないような行動に着地するのでしょうか。
また、ファンタジーとして「こうだったら」と考えたことを、そっくりそのまま現実にシフトさせてしまおうとするのでしょうか。
もちろん明確な答えがあるわけではないのですが、いろいろなケースを見ながら感じるのは、何らかの理由で現実にうまく適応できない子が「ここではないどこかに行けば、なんとかなるかもしれない」と別の場所や未来に期待しうらくなっている、ということです。
すなわち行き場を失い、行き詰まっている状態になっているわけです。
たとえば、静岡の女子生徒にしても、いま住んでいる地方都市では現実的な母親とも世俗的な同級生ともしっくりこなかったわけです。
だとするならば、
「いつかこの町を離れて理系の大学に行けば、私と話が合う友だちができるはずだ」
「日本じゃダメでも外国に行けば、雑音のないところで化学に没頭できるに違いない」
と未来に希望を託す方法も、十分考えられたはずです。
ところが彼女に限らず、問題を起こしかけている彼らは「いつかどこかで」と先を夢見るのが非常に不得意なのです。
これには、いくつかの理由があると思います。
まず、考えられるのは、
本人自身に遠い場所や未来を想像する能力が低いのではないかということです。
しかし、私の経験で言えば、診察室での会話などを開いているかぎり、こうした子たちに想像力やコミュニケーション能力が一般の子より劣っているとはとても考えられません。
ですからこれは決定的な理由にはならないかもしれません。
次に考えられることは、
情報量が多すぎるということです。
現実に適応できない少年少女は、どうしてもネットの世界に耽溺しがちになる場合が多いようですが、そこには、
「東京に行ったところで目立つ子だけがチヤホヤされる現実はいっしょ」
「ロンドンの大学に留学しても純粋に学問に打ち込む学生は少ない」
など、夢を見ようにも見られないようなネガティブな情報があふれています。
そこで、「どこに行っても結局いっしょなんだ」と未来を夢見ることをあきらめてしまう子も、いるのではないでしょうか。
そして、もっとも重要な理由だと私が考えているのが、
社会全体が少数派の人たちに対して 「いつかどこかで」を想像させるだけの余裕を失っていることです。
「個性が大切」と口では言いながら、異性の目を意識して「モテるスタイル」をした人だけに人気が集中しているわけです。
「お金や名声だけが大切じゃない」と言いながら、女優や女子アナが結婚するのはIT長者やプロ野球選手ばかりという事実もあります。
「社会の流れに背を向けた少数派がカッコイイ」といった価値観は、いまは昔の話です。
興味がなくてもだれもがネット株取引をやっているようなフリをしなければならないのが現在の情況です。
とくに他人の目が気になる若い人たちは、よほど強い意志をもっていない限り、
「私はほかの人たちとは違うけれど、いつかわかってもらえるときがくるだろう」
とマイペースをつづけることはできないでしょう。
「自分をわかってもらえない。
モテない。
ギャグを飛ばすことができない。
親や先生としっくりこない。
住んでいる町がきらい」。
そういう悩みを抱えた若者たちに、私は言いたいのです。
いま、うまくいかないからといって、イライラやあせりを衝動的に他者や自分に向けないではしいのです。
「ここではないどこか」「いまではないいつか」にかすかでもいいから希望を託して、いまをしのいでもらいたいのです。
とはいえ、社会全体がこの先、より自由でより風通しのよいところになっていくという期待がもちにくいのは事実です。
そうしたいま、若い人にだけ「未来に希望を託せ」とは言いにくいのも事実です。
「大丈夫、あなたの未来はきっと明るい」と言ってもらいたいのは、若者や子どもではなくておとなのほうなのかもしれないのです。
お気に入りのブックマーク・RSSに登録 »
関連記事
サイトマップカテゴリー:子供の心の病気
トラックバック(0)
http://yg-away.biz/mt/mt-tb.cgi/684

